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愛こそすべて

我が子に訳のわからんけったいな名前を付ける事が一部で流行している。もし僕に子供が出来て、翔舞(じゃんぷ)とか羽音帆(ぱねぽ)なんて友達を連れて来たら即刻引っ越し、しかしその先には玖恋夢(くりーむ)、歩夢(ぽえむ)などの夢シリーズが居って再度引っ越し、今度は慈音(じょん)、報瑠(ぽーる)の作曲家コンビが居やがって、僕を囲んでall you need is loveを演奏、そうだ、愛こそすべてなんだ。愛があれば名前なんてどうでも良いのだと洗脳され、我が子に愛(あい)と命名。あれ、普通じゃん。

あの曲のコーラスを録り直せ

僕には非常に苦手な場所が2つあって、それがドンキホーテヤマダ電機なんだけどまず前者は例のテーマ。あの豪華絢爛キラーチューンの「ボリュームまんてんげきやすじゃんぐるー」の後の悪意に満ちたコーラス「じゃんぐるだあ」でどうしても笑ってしまう。この様子を他の客は不審に思うに違いなく、僕もそう思われたくないので困る、苦手である。

そして後者。ドンキホーテの場合は急に「じゃんぐるだあ」が来る事は無いので身構える事が出来るんだけど、ヤマダは違う。何か良い物がないかとうろうろしていると予告も無しに「やまーだでんき!」と子供のような声が響く。すると僕は吹き出す。この様子を他の客は不審に思うに違いなく、僕もそう思われたくないので困る、苦手である。

「あの曲のコーラスを録り直せ」「やまーだでんきを流す時は予告しろ」などと苦情を入れようものなら狂人扱い、更には脅迫で逮捕され、翌日のニュースに「昨夜、男が店に押し入り『やまーだでんきを流すときは予告しろ』などと脅迫を・・・」といった事態になりかねない。「やまーだでんき」や「じゃんぐるだあ」なんぞの為に逮捕されるなんて阿呆らしい。阿呆。

蝙蝠男の受難

日頃溜まる鬱憤などを晴らす為、先日友人から譲り受けた米国のコミック英雄「バットマン」の人形(ソフビ。両腕・半身可動)を手に取った。

うふふと笑みを浮かべつつ、左腕をあらぬ方向へぐぐぐと曲げ倒したるや否や「ぽんっ」と間抜けな音をもって取り外れたではないか。ここで私は非常に愉しくなって、装着、ぐぐぐ、ぽんっ、装着、ぐぐぐ、ぽんっを数回繰り返した。

この「ぽんっ」が賞賛されるべきで、腕を取り外したるという猟奇的思考と、いざ外れた際のこの間抜けな空気音の差異が素晴らしい。じきに飽きたので左腕を外したまま本体と並べてベッドの上に放置。

数時間後に様子を見てみると、なんと左腕だけが無い。本体は白目で苦虫を噛み潰したような表情をしていて、左腕の喪失を嘆いているように見えた。自分も腕を失くすとあんな顔になんのかなと考えながら辺りを探ると、すぐに左腕は見つかった。

「良かった。本当に良かった」と哀れな蝙蝠男に左腕を装着、ぐぐぐ、ぽんっ。わはは。

市場原理主義vsデブ

さて、でぶ僕は現在進行形でぶくぶくと太っている最中なのだが、その程度は、まごうとなき真のデブが私を見るなり「あなたもなのね。パチリ」とウインクをするまではいかないと自負している(もしそんなデブがいたら頬を気のすむまで引っ叩きたい。パチリパチリ)。

この日本にもデブがいるのだが、まだデブ量産最先進国米国に比べれば幾分かマシな印象を受ける。米国でのデブは「自己管理能力が無い。アメリカンアイドルでも観ながら心臓発作でくたばりやがれこの豚野郎!」と社会的信用が薄いらしい。その点日本では、確かにデブはマイナスな印象しか与えないが、(その手の風俗店は別)そのデブが少ない為に米国よりも・・・いや、どちらにしてもデブはいかん。近親相姦、マザーファッカーである。

なぜアメリカは貧困な人々が多いにもかかわらず、デブが多いのか?気になった学なし僕はgoogleで「肥満 アメリカ 貧困」この三つの単語を意図的にアメリカを挟む形で並べ、「るいネット」というサイトへ飛んだ。そこにはこうあった。

『「肥満」という言葉は、自由の国アメリカでは、いまや「貧困」と同義語になりつつあるという。肥満は豊かさの結果かと思いきや、そうではない。アメリカでは貧困こそが肥満を生み出す原因となっている。

ニューヨーク州の公立小学校に通う生徒のなんと50%が肥満児だという。ニューヨークには190万人の児童がいるが、その25%が貧困児童であり、その3分の2が学校の無料-割引給食や、貧困ライン(世帯年収2万ドル=200万円以下)以下の家庭に配給される食料交換クーポン「フードスタンプ」に頼っている。「フードスタンプ」で交換できる食料は安いジャンクフードがほとんどである。無料-割引給食でも、ハンバーガーにピザ、マカロニ&チーズ、フライドチキン、ホットドッグなど、子どもの健康など全く考慮されていないメニューばかりが並ぶ。現在、無料-割引給食プログラムに登録している生徒数は全米で3000万人を超える。貧困地域ほどこの制度を利用する生徒は多く、裕福な地域の子どもたちは親が低カロリーで栄養価の高い手作りのランチを持たせている。朝食もろくに食べさせられない貧困地域の親たちにとって、給食プログラムは命綱となっているのである。


学校側は少ない予算でやりくりするために、人件費を削減し、調理器具は老巧化し、メニューは安価でカロリーが高く調理の簡単なインスタント食品やジャンクフードになってしまう。この学校給食という巨大市場をファースト・フードチェーンが狙う。政府の援助予算削減にともない、マクドナルドやピザハットなどの企業と契約する学校が増えている。ブッシュ政権は2007年度、6億5600万ドルの無料食料援助予算削減を実施し、そのために4万人の児童が無料給食プログラムから外される憂き目にあっている。新自由主義(=市場原理主義)の大義のもとに進められる社会保障関係の予算削減と、教育、福祉、医療分野の「民営化」推進政策は大企業を潤わせる一方で、貧困層は無慈悲に切捨てられ、その結果のひとつの現象として肥満児童がさらに増加しているのである。』

なるほど。このような子供たちは、高校や大学にも行かせてもらえないまま大人になり、更にデブのままだと、ろくな職業に就けないのではないか。そしてこのまま市場原理主義を推し進めていくと、またその子供たちも同じような道を辿る事になりそうだ。

気の毒な話だ。私はコーンチョコをもしゃもしゃと一袋平らげた。

The Who

幼少時代のあなたにとって、ヒーロー(創作物中の)とは誰だっただろうか。ウルトラシリーズ戦隊シリーズ仮面ライダーシリーズか、米国コミックの連中か。これら現在でもフアンが多いものの他にも賃金と休日を貰わねば数えていられない程、様々な特徴を持ったヒーロー達が世には存在している。口から火を吐く奴もあれば、腕から得体の知れない光線などを出しやがって敵を爆破する奴もあるし、恩賜煙草を吸った後に「ヤアーッ!」と叫び割腹自殺する奴もいる。そんな中、僕が当時夢中になったヒーローは、35年の歴史を誇るスーパー戦隊シリーズに名を連ねる五星戦隊ダイレンジャーだ。

そもそもスーパー戦隊シリーズというのは、35年前に放映されたゴレンジャーを始まりとし、数名の男女が色分けされた見るも無残なマスクとスーツで武装したヒーローに変身、悪の組織に属する怪人とチャンバラや銃撃戦を繰り広げる哀愁活劇である。

ダイレンジャーはこのシリーズの十七作目で、1993年の2月から翌年の2月まで放映された。いわば2月革命なのだ。これにより1991年に消滅したはずのソビエト連邦が再結成。する筈もなく、ただ子ども達が喜んだだけである。万国の子供達よ、団結せよ!とここまで書いていて気付いたのだけれど、「五星戦隊ダイレンジャー」なのである。奴ら言われてみれば拳法やら矛やら何もかもが中華で子どもの頃は気付きもしなかったが、中国国旗には五つの星、そして大連という都市が存在する。奴らが中国共産党の回し者で、社会主義の名の下に戦っていたのを俺は楽しんで観ていたのかと思うと腹が立ってきた。腹が立ってきたよねうん。

それに主題歌を任されていた歌手の名前、これには皆さんも腹が立つに違いない。「NEW JACK拓郎」である。もう一度言おう。「NEW JACK拓郎」である。こんな珍妙滑稽な名の歌手が名誉あるスーパー戦隊シリーズの主題歌を我が物とし、いくら儲けたのかは知らないが金を手にしているのだ。許すまじ、NEW JACK拓郎。もうこのNEW JACK拓郎はどうでも良い。いや、どうでも良いわけがなく更にNEW JACK拓郎並びにダイレンジャーに対する怒りが湧いて来た。何もウルトラマンが一番好きだった事を思い出して書き直そうかと思ったけど消すのも勿体無いのでいちゃもんつけて話をすり替えようなんてそんな事は無くてでもやっぱりウルトラマンが一等好みであって腕から得体の知れない光線を出しやがって敵を爆破する奴と最初に言ったけどそれには愛が含まれていてやっぱりこの世界に一番必要なのは愛だよ愛。わたしはウルトラマンを愛しています。

というわけでウルトラマンなのである。ウルトラシリーズスーパー戦隊シリーズよりも十年長い歴史がある。つまり、45年だ。ビートルズ武道館公演を果たした1966年にウルトラシリーズ第一作目、ウルトラマンが始まったのだ。当然リアルタイムで観てあったわけではない。一体どこから入手したのか「ウルトラマン名勝負集」なるビデオが我が家にあって、それを観ていたのだ。とここまで書いていてふと思ったのだけれど、確かにウルトラマンは子供の頃好きだったはずだ。しかしその度合までは覚えていない。もしかすると憧れていたと言う程夢中にはなっていないかもしれん。とすると一体僕にとってのヒーローは誰だったのだろう。思い出せない。どうしても思い出せない。もうこの際NEW JACK拓郎でいいや。僕が子供の頃憧れていたヒーローはNEW JACK拓郎でした。ああ眠たい。

あんた信じ難いよ、ほんま。

疑い癖があって、これは困りごとである。例えば他の人が私に善き事をするならば、取り入って何をするつもりだ、欺瞞だと裁定し、他人など信じられぬのだ。
  

これは困りごとである。どういう風に困るかというと、外出時に自宅が燃え、大家なり近所の連中が「さささ澤田さん家が燃えてますよ!」と電話を掛けてくるのだ。そこで疑い癖のある私は「なんだ、つまらない冗談は止して下さいよ。ではでは」とか何とか云って電話を切る。そしてそのまま居酒屋やバーやスナックに行き、こんな事があったんだよとグラス片手にへらへらし、次第に良い心地になって家に帰って寝ようとすると、無いのだ。家が。すっかり酩酎している私はわははと笑い、大家なり近所の連中に「家が無いんですけども、どこに隠したのかな~?」と連絡を取る。すると、一体どこへ行ってたんだ、あほじゃないか、屑じゃないかと罵倒され、我が親友のPC、会社の書類は灰になり、というか家そのものがなく、路頭に迷うのである。

  

この他にも、電気代を払え。さもないと止めるといった旨の通達が来たとする。これも疑い、どうせ嘘だろと無視し、そのまま居酒屋やバーやスナックに行き、こんな事があったんだよとグラス片手にへらへらし、次第に良い心地になって家に帰って電気を点けようとすると、点かないのだ。電気が。すっかり酩酎している私はわははと笑い、電力会社に電気が点かないんだけど、と連絡を取る。すると、電気が欲しけりゃ金を払え、まぬけ。ちんどん屋などと罵倒され、パソコンも使えず、こんなとこにはおれんと路頭に迷うのである。


  これらは序の口で、他にも酷いのが思い付いたが、段々嫌気が差して来たのでこの位にしておく。それなりには他人を信じたいものだ。

怠惰の根底にあるもの

「怠惰の根底にあるもの」なんて仰々しいタイトルが踊っておりますけども、これは所謂、体裁そして見栄と自己顕示欲によるもので、つまり今回は幼少の頃を振り返り現在の私を形成したもの、怠惰の権化の作り方を追ってみようではないかというのもこれまた体裁で、体裁だらけなんだけどつまり子供の頃の話でもしようかと思います。今から。

まず幼稚園に通っていた頃。未だ世の汚れを知らぬ純粋無垢な子供で、両親は「この子には明るい未来が待っているに違いない!」と思っていたのかは知らないが、間違っても「今日も悪魔の毒々モンスターを鑑賞だあ、うひひ」なんて事は言っていなかった。

遊ぶ事ばかり考え、危険を顧みずに走り回っていたように思う。毎日が光り輝いていた。70年代イギリスグラムロックの重鎮モットザフープルの一曲にロックンロール黄金時代(要チェック)というものがあるが、まさにあの通りである。一挙一投足にブラスが鳴り響き、時には血濡れになったり(下記)もしたが結局はネバーダイだったと言っても例の曲を知らない人は訳が分からないだろうけど、とにかく黄金だったのだ。うひひ。

記:躓き顔面強打、多量出血。転んで額を強打、大量出血。頭を擦り剥き、顔面血塗れ。強く頭を打ち、出血。階段から転げ、頭部強打。この他にも幾度となく脳に近い部位を痛めた事が現在にどのような影響を及ぼしているのかは不明だが、頭を打った途端に馬鹿になったとかそういう話は聞いてないので元々馬鹿だったのだろう。安心。

さて、この黄金時代を振り返るに当たって忘れてはいけない人物がいる。それはYだ。Yは同級生で、なんと同じアパートに住んでいたのだ。当然一緒に遊ぶ事も多くなるよね。二人してよく分からん若い姉ちゃんに着いて行ったり、虫を捕まえたり、ゲームをしたりしていた。一番印象に残っているのはYの家にある赤いジャングルジムで、これには毎度必ず潜り込んでいた。潜る、この行為だけで楽しめたのはやはり子供だったからだと考える。今ならばしかめっ面で潜り込み、俳句でも詠まないと楽しめないだろう。

というわけで、この続きはまた今度。もう一生しないかもしれんけど。